ヴラゲィゲロフ パンチョ ( Pancho Vladigerov)

ブルガリアの作曲家、ピアニストで指揮者で教育者でもある
パンチョ・ヴラディゲロフのご紹介です。

私たちは、『皆おいでよ』と呼びかけているようなパンチョの作品が大好きです。
クラシック?と首をかしげ、ポピュラー?と首をかしげ……。

『ブルガリアの民俗音楽と西ヨーロッパ音楽との融合を果たした作曲家』として、ブルガリアの人々から親しみと尊敬を集めているパンチョではあるけれど、私達は無国籍音楽のような、他民族国家の音楽のような、誰でも楽しめる寛容さを彼の作品から感じています。

パンチョの博物館
パンチョ•ヴラディゲロフ博物館(Sofia)
パンチョが50代後半から終世暮らした家です。パンチョは、この家の庭が大好きだったそうです。

さぁ、パンチョのお話を、シェヘラザードのように少しずつ少しずつ進めていきましょう。

 

パンチョが生まれてからベルリンに行くまで

写真でお分かりになると思いますが、パンチョは双子ちゃんです。
祖父のチューリヒの別荘で1899年3月13日に生まれました。弟のリューベンはヴァイオリニストになりました。

img038

後列は母エリザと父ハララン、
前列はパンチョとリューベン、真ん中のお美しい方は双子ちゃんの乳母です。

『何故チューリヒで生まれたのか?』と言うと、この双子の母エリザが医師だったことで困難な双子の出産を『名医がいるチューリヒで』と考えたからだと伝えられています。

パンチョとリューベン兄弟は、幼少期をブルガリアのシューメンで暮らしました。

エリザは、旧ソ連のノーベル文学賞受賞者、詩人ボリス・パステルナーク(小説ドクトル・ジバコ)の家系の人です。エリザの父であり、チューリヒの別荘の持ち主である双子の祖父レオン・パステルナークも科学者であり数学者でありピアニストであり作曲家でありといった教養人だったようです。

img040
レオン・パステルナーク一家の写真
左にいる可愛い女の子がパンチョの母となるエリザです。
両親と弟たちと写っています。

双子の父ハララン・ヴラディゲロフは弁護士でした。
彼の父はパナヨトゥ・コスタキエフといいます。しかし、ハラランは、母方の姓ヴラディゲロフで暮らしました。

img039
コスタキエフ一家の写真
ジッとしていない息子の腕をしっかり掴んでいるパナヨトゥ・コスタキエフと、
優しく手をつないでいるハラランの母ヴァシルカ・コスタキエヴァ・ヴラディゲロヴァです。

 

パンチョとリューベンは、日本で言えば小学校に入学したものの、すぐに中退。

これは、母エリザの方針です。
当時のブルガリアの学校は、まだオスマン・トルコ支配下時代のカリキュラムで教育が行われていたようです。科学者で医師でもあった母エリザが、
「あなたたちの勉強は、お母さんが頑張るわ」となったのでしょうね。

6歳からパンチョはピアノを、リューベンはヴァイオリンを始め、
双子は、8歳の時に最初のリサイタルをシューメンの公会堂で開催。

img015
ピアノを始めたばかりの頃のパンチョ・ヴラディゲロフ
可愛らしいですね。

 

パンチョの最初のピアノの先生は母エリザです。
リューベンの最初のバイオリンの先生は祖父レオンです。

img037
祖父レオン・パステルナークと一緒に。
ヴァイオリンを持っているのがリューベンで、座っているのがパンチョです。

img044ハララン・ヴラディゲロフ


1908年にパンチョの父ハラランが亡くなり、

1910年、一家はシューメンからソフィアにお引っ越し。

パンチョは、ソフィアでドブリ・フリストフに師事しました。
ドブリ・フリストフは1875年生まれの作曲家です。
ブルガリアが1878年にオスマン•トルコから独立した後に、ブルガリア正教のミサ曲などをブルガリア独自の音使いで作曲した人です。当時のナンバーワンです。

また、ソフィアでは、フランス人ヴァイオリニスト、ヘンリ・マシューに出会います。

1914年、パンチョとリューベンは、州の奨学金を得てベルリンに留学します。

ベルリン留学後、パンチョはヘンリ・マシューに、作品第1番のヴァイオリンソナタ(1914年)を捧げています。このヴァイオリンソナタが高評価を得て、パンチョとリューベンは、共にベルリン高等音楽学校の上級科に入学しました。

パンチョとヘンリ・マシュー
ヘンリ・マシューの自宅(リヒテンベルグ)で、マシューとパンチョ(1914年)

ベルリンでは、ハインリヒ・バルト(ピアノ)、ポール・ジュアン(作曲)に師事しました。
パンチョとハインリヒ・バルト
ハインリヒ・バルトとパンチョです。

パンチョは、1918年に作曲したピアノコンチェルト第1番でメンデルスゾーン賞を獲得し、ベルリン芸術アカデミーの評議委員に選出されました。

また、1918年に、パンチョとリューベンは故郷ブルガリアで軍役につきます。

軍役時代のパンチョとリューベン
軍役中のパンチョとリューベンです。どちらがパンチョか分かりません。

♡ 軍役中のエピソード
初めての乗馬訓練で、
数日前から訓練を受けていた弟のリューベンに負けじと馬に乗るなり鞭を入れたパンチョ。
即座に落馬し「あぁ、この馬には乗り飽きたな」

軍役といっても軍のオーケストラ勤務。ブルガリア各地で演奏会を行いました。

 パンチョのピアノコンチェルト第1番は、パンチョがピアニストを務めて大成功をおさめ、〝ブルガリア音楽史の新たな幕開け”と言われました。

 右下の写真は、私たちDuo Uchidaが大好きなパンチョ・ヴラディゲロフの作風が生まれたことに最も影響がある人マックス・ラインハルトです。当時、ベルリンのドイツ劇場の劇場監督でした。『演劇界の皇帝』と呼ばれていました。
パンチョは、軍役後の1921年から1932年まで、ラインハルトがいるドイツ劇場で指揮者・ピアニスト・作曲家をつとめました。
ラインハルトと出会ってからのパンチョの作品は、正に『西ヨーロッパの音楽とブルガリア民俗音楽の融合』と言える物になっていきます。img068

故郷ブルガリアの民俗音楽を客観的に眺め、それまで彼が勉強してきたクラシック音楽に取り入れ融合させ、民俗音楽の灰汁のようなものを取り除き、楽しくて聴きやすい作品の数々。
私達Duo Uchidaが好きなパンチョ作品の個性の誕生です。

ありがとう、ラインハルト!

 

1932年、ユダヤ系ドイツ人であったラインハルトは、アメリカに亡命します。そして、ブロードウェイで活躍した後の1943年にニューヨークで亡くなりました。

 

下は、軍役も終わり、ドイツでの生活にも区切りをつけ、住まいをブルガリアに移したあとの1934年に、ウィーンでピアノコンチェルト第1番を自ら演奏したときのパンチョです。
オーケストラはウィーンフィルハーモニックです。

 

パンチョ、ピアノコンチェルト第1番

※ メンデルスゾーン賞は、あの有名なメンデルスゾーンが亡くなった後に創設された奨学金のことです。パンチョの前にも後にも、この賞の受賞者たちは音楽界で活躍しています。

 ※ ベルリン芸術アカデミーは、1696年7月11日にブランデンブルク辺境領選帝侯のフリードリヒ3世が設立した「絵画・彫刻・建築芸術アカデミー」を起源としているようです。時代の変化に呼応した形で変化していますが、今では、視覚芸術、建築、音楽、文学、舞台芸術、映画、メディアアートの人材育成と、その時代を代表する芸術に寄与した人たちの国際的な組織になっています。
パンチョの頃のアカデミーのトップは、作曲家リヒャルト・シュトラウスでした。

 

 パンチョのピアノデュオ作品

パンチョは改編作家です。一つの作品を、様々な楽器や編成に改編しています。
例えば、パンチョの代表曲『ラプソディー・ヴァルダル』は、ヴァイオリンとピアノのための『ブルガリア狂詩曲“ヴァルダル“』として生まれましたが、その後、管弦楽曲、ピアノ独奏曲、ヴァイオリンデュオ、ピアノデュオ(2台ピアノ&連弾)があります。
このような場合、とかく世間では編曲として扱われているようですが、パンチョ自身の考えは、「全てがオリジナル」だそうです。
私達は、例とした『ラプソディー・ヴァルダル』の連弾用と2台ピアノ用両方をレパートリーにしていますが、たしかに、パンチョが言うように、連弾の演奏、2台ピアノの演奏、それぞれの良さが出るように、また、その編成でなければ生まれないニュアンスが楽譜に認められています。
つまり、連弾の『ラプソディー・ヴァルダル』を2台のピアノで演奏しても良い演奏は出来ないのです。img069

 

 

 

 

『ラプソディー・ヴァルダル』最初のレコーディング時のワンショット。指揮者はMax von Schillings、ヴァイオリンは、もちろん弟のリューベンです。

 

 

 

10729075_679636845483985_1892511530_n

パンチョの愛犬チュナタ嬢。
パンチョは彼女に歌唱指導をしていたとか。

img07010744929_679636902150646_1269312662_n写真が大好きだったパンチョ・ヴラディゲロフ。
仕事部屋には壁一面に写真を飾っていました。アマチュア写真家としても有名だったとのことです。